絶望を味わってみた。。いつぶりだろう??この味を思いだすの、、ずいぶん久しぶりのように思う。。

前は「絶望」を環境のせいにしてたけど、、今の環境はぼくにとって最高なので、環境ではなく原因はぼくだった。。どうやら、、

最近はそういったことを考えてるんだけど、ついに「今」の現実を感じることができて、ぼくは「何者」でもない、、ということ。

今の環境に出会う前は、ぼくに会う環境さえ見つかれば、最高の上司の元で動けたら、どうにかなる、、と思ってたけど、、結局はその条件を満たしても、ぼくはいっぱいいっぱいになった時点で仕事投げてしまった、、

んで、その上司がぼくを使ってくれた理由もただ「時間」があるから、、という、ぼくにとっては見たくない現実もようやく痛感することができた、、

ぼくは今無職だ、、バイトすらろくにやってない、その環境に一年身をおいてる。。

そんな中、今まで中心的に時間を使ってきたのが、あるNPO法人で、その団体は今の時代には金にもなりにくいし、認められずらいんだけど、この理事の理念が素晴らしくて、もう少し時間が進んた、次の次の時代の時に中心で踊ってる人であり、団体になると感じたので、ぼくはそうなるまでの過程をここで味わいたし、楽しみたいと思った。。

ちなみにぼくにとっての理想の上司がこの理事になる。。

さっき書いたように、今のぼくには時間があって、とても早い段階から、理事の理念に感銘を受けたこともあり、この団体で中心的に働くことができたんだけど、そうなれたのは、ぼくが「それ」だけしか持っていなくて、逆に言うと「それ」らを持ってるから、働けたのだ。。

つまり、、時間があるから、、という見方もあれば、先見の明を持っているから《ぼくはこの団体が必ず成功すると思ってる》という見方もできて、、でも問題なのは、そこじゃないくて、、

こんなに思い入れのある団体で、それだけの時間をかけてきたのに、ぼくは今現在、そこで何者にもなれてないんだよね。。

そこがぼくにとっての最大の問題で、もしかしたら「何か」を環境のせいにしてる人にも通じるものがあるかもしれない。。

まあようは勘違いをしてたんよ、、自分は特別だ、、って。そう思いたかったし、そう思ってみたかった。。

余談だけど、理想の環境に身を置く方法を知ってるかな??ぼくの仮説では二つある思いついたんだけど、ひとつは理想の居場所を創る、、もうひとつは理想の居場所に出会う。。

ぼくが選んだのは後者、、理想の居場所に出会ってみたかった。。

なんでかっていうと、、ぼくはぼくを幼少の頃からすごいと思ってて、自分の中では感覚的にその根拠はあるんだけど、でもそれを誰かに説明することができなかったから、ようは根拠のない自信を持っていた、、

ぼくはこれを認めてくれる人がいるのか知りたかったし、いるなら出会いたかった。。でも認めてくれるなら、誰でも良かったわけじゃなくて、ぼくが心から尊敬できる人、、その人から何者でもない時に、、ぼくの感じるすごさをただ認めて欲しかった。。

それが本当にそうなのか??それがぼくの中にあるのか??そんな人がこの世にいるのか??

それを認めてくれる人はこの世にいたし、出会えたんだけど、、出会えるまでにはいろいろあった、、

これはただ単にぼくが努力できなかっただけの言い訳かもしれないけど、、ぼくは何者でもなく、、つまり実績を持たないままで、ぼくのすごいと思う部分をすごいと認めてくれる、すごい人を探してきたわけで、そうするために「理想の環境に出会う」を繰り返してきたんだ。。

これ言葉では都合のいい感じに聞こえるけど、言い方を変えれば、「嫌なことがあればやめる」「中途半端に仕事を投げる」につながるわけだ。。

ぼくはこれを繰り返したから、フールズ【さっき書いたNPO法人の名前》に出会えたし、その出会いがぼくの人生には必要だと感じてるから、何も間違ってはいなかったんだけど、、中途半端に仕事を投げる、、はそのフールズの「仕事」でも発揮されたんだよね。。

つまり、、フールズに出会えた中途半端さは感謝すべきなのに、その中途半端さはぼくのフールズ生活では足を引っ張っている。。

ここまで書いて、思い出したけど、、ぼくは生まれてから、ずっと中途半端だったように思う、、もしそうなら、ぼくはぼくの本質的な弱さと今向き合ってるのかもな。。

ただ一応断っておくけど、中途半端に行きつつ、フールズに出会うまではぼくがすごいと思ってるとこはずっと鍛えてきたし、意識してきた。。

はっきりしてるのは、ぼくに実績がなくても、ぼくの中のすごいと思うとこを認めてくれるすごい人がいるわけで、ぼくはそれを知れたことが幸せで、ある種報われた。。

だからぼくが欲しかったものが明らかに満たされて、「今」欲しいものがはっきりと変わったんだろう。。
んで、それを手に入れるために必要なものが正反対、、今までは「中途半端さ」を肯定してきたけど、次ぼくがもめてるのは、「循環した幸せの共有」だから、その「積み重ね」とか物事の裏側、、とか、今まで逃げてきたものを大切にする時間が必要、、なんだろうな。。

ただそれが今までと本当に正反対だから、戸惑ってる、、、ってのが、ぼくの内情。

今ぼくは自分の中途半端さを感じて、絶望してるけど、、、前はぼくの中にいる「卑しさ」に絶望してたんだよね。。

それがきつくて、バイトもやめて、当時はかなり落ち込んだけど、、その絶望を味わったから、、以前のおれだったら、「卑しさ」を発揮した機会があっても、それはやめとこう、、と素直に思えた。。

んで、それができたから、その時のぼくよりも今のぼくの方が幸せだし、なんとかなると感じてる。。

だから、この中途半端さに絶望してるのも、ぼくが幸せになるきっかけへすることも、絶望のままでに終わらせるのも、ぼく次第と想う。

でもひとつ反省点があって、絶望を味わえたけど、浸れなかった、、あまりに久しぶりで、このまま底へ沈んで{ちなみにこの時外}歩けなくなるのが、怖くなったので、「うんこしたい」欲求に従って、歩き出してしまったのだ、、

ただ振り返ってみると、もう少しあの時間を大切にしたかったので、次は味わうだけじゃなく、浸ってみたいな。。